柔道とは何か?

 柔道という言葉を知らない人は、いないと思いますが、まず、柔道とは何なのかを考えてみましょう。

 柔道とは、昔から日本に存在した武術のひとつでしょうか。そうではありません。
 柔道とは、ある一人の人間が、日本に昔からあった柔術(体術、和(やわら)、柔道、小具足、捕手、拳法、腰の廻り、白打、手搏と呼ばれるものは柔術の一種)と呼ばれていた武術を基にし、ある目的を持って作ったものです。
 そのある一人の人間とは、嘉納治五郎という人です。
 嘉納治五郎が明治15年(1882年)5月に講道館を東京の下谷北稲荷町永昌寺において創始し、そこで教えたのが柔道です。国際柔道連盟規約第一条・定義には、『国際柔道連盟は嘉納治五郎によって創始されたものを柔道と認める』と書いてあります。

 では、嘉納治五郎がどういう人であったか、その経歴を見れば、柔道がどのような目的で創始されたのか、よりよく理解できるかもしれません。その嘉納治五郎の経歴と講道館に関する記事をまとめてみました。

万延 元年(1860年)10月:兵庫県御影町の酒造家、豪商の名家に三男として生まれる。
明治 3年(1870年)   :上京し、成達書塾に通い、漢字・書道を中心に学ぶ。(10歳)
明治 6年(1873年)   :育英義塾でnative speakerに英語・ドイツ語を学ぶ。(13歳)
                 この頃柔術に興味を持つが、柔術家が見つからず。
明治 7年(1874年)4月:東京外語学校で英語を学ぶ。(14歳)
明治 8年(1875年)   :国立開成学校入学。(15歳)
明治10年(1877年)   :東京帝国大学文学部に編入学。(17歳)
                 この頃、福田八之助から天神真楊流柔術を習う。
明治12年(1879年)   :福田八之助、訪日した米グラント大統領に柔術の型を披露。(19歳)
                 福田八之助死去に伴い福田道場を継承し、その後、磯正智道場で修行。
明治14年(1881年)7月:東京帝国大学卒業。さらに哲学選科生として在学。(21歳)
                 磯正智死去。その後、飯久保恒年について起倒流柔術を修行。
明治15年(1882年)1月:学習院(現学習院大学)講師。(22歳)

明治15年(1882年)5月:下谷北稲荷町(現在の台東区東上野)永昌寺に講道館を開く。入門9名。
                 同時期、嘉納塾を始め、大正8年(1919年)まで38年間続ける。
                 同年3月頃、弘文館という英語の学校を興す。約7年続ける。
明治16年(1883年)   :講道館を南神保町に移した後、更に麹町上ニ番町に移す。(23歳)
                 学習院に柔道道場を開く。起倒流柔術の免許を授かる。
明治18年(1885年)   :学習院教授。(24歳)
                 警視庁武術大会で講道館vs.柔術戸塚派との対戦が行われる。
                 明治21年頃まで戸塚派楊心流との対決が続き、悉く勝つ。
明治19年(1886年)頃 :講道館を九段上富士見町に移築。(26歳)
                 最も盛んな研究・活躍時代。柔道の技術を進歩させた時代。
明治20年(1887年)   :東京帝国大学に柔道場創設。
                 柔の形、固めの形等考案。                 
明治22年(1889年)9月:宮内省からの命で欧州の教育事情視察。(29歳)
                 講道館を本郷真砂町に移転。70畳。門人1500名を越える。
明治24年(1891年)1月:欧州より帰国。船中でロシア人海軍士官を投げる。余興?(31歳)
              9月:熊本の第五高等中学校校長に就任。

明治26年(1893年)6月:第一高等中学校校長に就任。(33歳)
              9月:高等師範学校(現筑波大学)校長に就任。
                 ラフカディオ ハーンが柔道について欧米の新聞に記事を書く。
明治27年(1894年)5月:小石川下富坂町に100畳敷きの講道館大道場完成。(34歳)
明治28年(1895年)   :ラフカディオ ハーン米国出版の“Out of the East”で柔術を紹介。
明治30年(1897年)   :海軍湯浅竹次郎少佐、オーストラリア メルボルンで初の柔道実演。
明治32年(1899年)9月:エール大学教授が講道館で柔道の実演を視察。(39歳)
             10月:日本陸軍に初の柔道場開設。柔道試合規定制定。
明治34年(1901年)11月:英国の大学、海軍関係者が講道館を訪問。(41歳)
明治35年(1902年)   :中国人留学生のための日本語教育学校 宏文学院を開校。(42歳)
                 教育視察のため二度目の渡欧。
                 山下義韶(よしつぐ)柔道普及のため、1907年まで米国に渡り、ハーバード
                 大学、海軍学校その他で教える。ルーズベルト大統領にも教える。
明治40年(1907年)   :固めの形、投げの形制定。(47歳)
明治42年(1909年)5月:日本人初(アジア初)のIOC委員に選出される。(49歳)
明治44年(1911年)7月:大日本体育協会の設立。会長就任。(51歳)
明治45年(1912年)   :第5回オリンピック ストックホルム大会日本初参加。(52歳)
大正 8年(1919年)3月:講道館においてコロンビア大学のDewey教授に柔道の原理を説明。
大正 9年(1920年)   :高等師範学校校長を辞職。(60歳)
昭和 元年(1926年)9月:講道館に女性用道場開設。
昭和13年(1938年)5月:IOCカイロ会議で第12回オリンピック(1940年予定)、東京招致成功。
                 バンクーバーから氷川丸で帰国途中、急性肺炎で死去。(78歳)

 以上概観すると嘉納治五郎は、柔道だけでなく、教育及び体育の普及に努めた人であることが分かります。戦前の幻の東京オリンピックを日本に招致した人でもあります。また、柔道は熊本の第5高等中学校に嘉納治五郎が赴任したときに、ラフカディオ ハーンが教師としており、その縁で海外に早くから紹介されるとともに、嘉納治五郎自信が十数回海外に赴いた国際的な人であったこともあり、早くから外国に普及していったことが分かります。

 それでは、嘉納治五郎が柔術を基に柔道を創始するに当たり改良を加えた点をまとめてみましょう。
@基本の姿勢を一番変化しやすく、疲れない自然体とした。
 (従来の柔術では、自護体を採る事が多かった。)
A業の種類が最も多く、変化も余計ある投げ勝負に重きを置いた。
 (従来の柔術に投げ技が多かった訳ではない。むしろ少なかったが、講道館で改良考案。)
B練習を形主体の練習から乱取主体の練習に変えた。
C柔術の投技、固技(抑技、絞技、関節技)、当身技(突技、打技、蹴技)の内、当身技は危険なので
  乱取や試合では用いず、形として練習することにした。

 上記@〜Cまで基本的には、怪我をすることなく最も多様な動きをすることにより、体育と勝負(武術)の視点から改良を加えている。また、練習の過程において従来の柔術が経験による技の習得に重きを置いたのに対し、柔道では技の物理的原理を明確にし、精力(精神と力)を最もよく働かせることが攻撃防御の根本原理(精力最善活用)であるとした。要するに柔道は一人一人が、技の原理を理解したうえで、自分の精神と体をどのように働かせれば良いか、創意工夫することに意味を持たせている。そして、このような態度は、人間の全ての活動に応用が利くものであるとしている。要するに柔道はただ単なる体を鍛えるだけでなく、人間の生き方も教えるものである。

 ここで柔道という名称については、次のことが考慮されて名付けられています。
@新しく始めるものなので、世間に誤解されない名称であること。
A術は手段で道が根本なのだから、名前に道を入れること。
B柔術の伝統を継承してきた古人の功労を消さないために柔の字を残すこと。

 さて、“道”とは何でしょう。加納治五郎は単なる武術を教えるなら、練武館、講武館、尚武館などと言っただろうと言ってます。講道館とは、『柔道を教授する館』。即ち、柔道の柔(技術)だけでなく道を教えるところなのです。嘉納治五郎は、全ての人間に共通の道を説こうとしたようです。即ち、道場においてどれほど技術の練習をしても、胆力や勇気という練習に伴って自然に養われるものの他に望み得られるものは無い。信義とか廉恥と言うようなことは、別に教えられなければ、技術の練習のみでは不可能である、と言っています。要するに講道館においては、技術の習得だけでなく、人間として大切な徳目の教育も目指していたと考えられます。即ち、文武を兼ねた人の育成を目指していたと思われます。
 まとめると柔道は、練体法・勝負法・修身法よりなり、言い換えると、体育としての柔道・武術としての柔道・知徳の修養及び原理の実生活への応用可能な柔道を考えていたようである。

 私の勘違いもあるかもしれませんが、柔道は日本の伝統文化としての柔術に配慮しつつ、近代日本の人間育成に役立つものとして改良・考案されたものと考えたらよいでしょうか。

                                                         2004年3月21日記


参考文献:村田直樹著 『嘉納治五郎師範に学ぶ』 潟xースボールマガジン社発売
        松本  騰著 『図解 初心者の柔道教室』 弘文出版株ュ行
       Brian N.Watson著 “The Father of Judo(A Biography of Jigoro Kano)”
                    講談社インターナショナル株ュ行

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